【実録】息子を灘中学に合格させた親がしたこと
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2023.03.27
- 多くの東大合格者を輩出する最難関校、灘。その学校に子供を送りこんだ親は何をしたのか?実録で迫る。
話を聞いたのは、関西在住の40代の男性A氏。現在中学生の息子と小学生の娘がいる。
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中学受験のための特別な準備はしていない
まず、いつから中学受験を意識したか?について。
「さぞかし早期から教育に力を入れていたのでは?」と思われるが、幼稚園や小学校低学年から塾に通わせて、といったことはしていなかったという。
A氏は語る。
習い事は、そろばんがよくできた。そのため市の大会に出場し賞をとったりと、熱心に学んでいたという。
とはいえその後、小学校も高学年になり、進学を考え始めた段階で「塾を取るか、そろばんを続けるか」を決めることにした。小学校5年生くらいの頃だ。
そろばんの先生からは「今やめるのはもったいない」と言われながらも、まずは家から近い塾へと通い始めた。
中学受験を目指す塾で、関西ならば規模の大きく有名なところもあるが、そこには行っていない。
その塾で成績がよかったことから「上の学校を目指すか」となったという。塾の先生からは「灘も目指せると思います」と言われたそうだが、子供の学力がほかの子と比べてどのくらいできているのかがわからなかったので、大規模な塾が実施する模試を受けるなどして、今の子供の立ち位置を正確に把握する必要があると考えた。
現実の直視と不安、転塾
模試を受けてみたところ、子供はあまりよい点を取れなかったという。塾からは「灘を目指せる」と言われたものの、現実はまったくそのような数字が伴っていない。
その事実に直面したことで、親の間には一気に不安が広がったという。通っていた塾が「小学校6年生の最後に間に合えばいい」考えで詰め込まないスタイルだった。ほかの塾はどんどん詰め込んでいく形だったので、その塾の姿勢は「のんびりしている」ように映った。
他塾の模試で出題される問題も、その当時通っていた塾ではまだやっていない内容が出たりして、当然子供は解答できない。その事実も不安に拍車をかけた。
塾の先生からは『心配しなくて大丈夫』と言われていましたが、平常心でいられなかったのは妻ですね。不安になって塾に『本当に大丈夫ですか?』と問い詰めたりしていました。
A氏は振り返る。
親が音を上げる、親があたふたする、親の考えが父と母で合わずケンカ、は「中学受験あるある」だ。
塾には大丈夫と言われても、親の不安はどんどん増していった。
不安は塾に対する不信へと変わり、そしてA氏自身も疑問を抱くようになった。 その塾には明確な指標があるわけではなかったので、息子の成績に関して現状の正確な把握ができなかった。最難関の学校を受けるならば、その指標をしっかり持っているところに通ったほうがよいのではないか?と思うようになりました。
そして塾に通い始めて1年ほど経った小学校6年生のゴールデンウィーク頃に、家族の中でも「ほかの塾に替えようか」という話になった。
新しい塾を選ぶうえで決め手になったポイントとは?
最難関中学向けの関西の塾として、3つが候補になった。
まず検討した学習塾Aは「マンモス塾」で、多くの生徒が通っている。どうしても生徒1人ひとりに割ける時間が限られ、塾を替える理由になった現状の正確な把握と「今何をすべきか」を示してもらえるかどうか?がわからない印象を受けたという。
次の候補、学習塾Bに対するA氏の印象は「仕組みが非常によくできているが、講師は若い人が多く、本当のベテランの先生はいないのではないか?」だった。
候補Cは元々学習塾Aにいた講師が独立したところで、「量より質」のスタンスで、生徒数はほかの2校に比べ少ないものの、難関校に合格している率が高いと感じ、候補Cがいいだろうという話になった。
最終的に関西で最難関の灘を受けるか、その次のレベルの学校を受験するかに関しても、その学習塾の方針は「息子さんの学力がこのラインに行かないならこの学校を受けましょう」と明確だったのも、転塾を決めたポイントだったという。
息子はそれまで通っていた塾が居心地もよく、友だちもできていたので転塾を嫌がりましたが「この学校に行きたい、を優先するならば、塾は替えたほうがいい」と説得し、納得のうえで塾を替えました。
新しい塾での苦戦
息子は転塾した当初はまったく勉強に追い付けず、よく泣いていました。
A氏は述懐する。子供も、親も苦しかったときの1つだ。
そのように苦戦した子供も、塾のカリキュラムや内容に慣れてきたその後の夏合宿の頃から塾の中でも成績が伸び始めた。秋の公開模試でも、10番以内といった成績を取るようになったという。
なお、「模試」にはその塾だけでなくほかの塾に通っている生徒も受けられる「公開模試」と、「最難関校向け」というように絞った枠組みのテストの2通りがある。
子供は公開模試では好成績になってきたものの、灘などの最難関校向けの模試では成績は芳しくなかった。
そのためどうなるかと親も気を揉んでいたそうだが、秋頃になるとそれらのテストでもB判定(合格確率60%)といった結果が出るようになったという。
そのような紆余曲折を経ながら時は経っていき、11月、12月になると最後の追い込みとなり、クリスマスや正月などの年末年始を楽しむこともなく、着々と本番に向けて子供も、親も準備を進めていった。
なお、模試の結果が「A判定」ならば合格確率は80%、よほどのことがない限り大丈夫で、B判定は「合格できそう」くらい、C判定でその学習塾の灘合格者がたまにいるレベルとなる。
息子は成績を伸ばしていたとはいえ、B判定でしたから安心はできずに、受験当日を迎えました。
受験当日のトラブルと「ヤバい」
本番の入学試験は函館ラ・サールからスタートした。子供は大阪会場で受験している。試験当日は朝の電車で酔ったようで、具合が悪くなったという。
なにせ、受験をするのは小学生だ。当日に過度の緊張で吐いてしまう、具合が悪くなるといったことは珍しくない。それでも受験することができ、まず合格を手にした。
その後本命の灘を迎えた。 灘は試験が2日にわたる。子供は初日が終わったあと、半泣きになって出てきたという。全然できなかったのだ。
「親としても『こりゃアカン』という感じでした。『明日に向けて頑張れ』というようなことは言いましたが、余計なプレッシャーになってもいけないので、言葉を選びました」(A氏)
そして迎えた2日目。子供は「ヤバい」と言いながら出てきたという。
しかし、そのときはその内容が180度違った。「ヤバい。できすぎた」だったのだ。
まったくできなかったという1日目と、できすぎたという2日目。その合計が、どのような結果になるか?家族全員、期待と不安を抱きながら、その日を終えた。
ついに来た歓喜のとき
結果は出ない間にも、次の受験スケジュールはやってくる。子供は灘、函館ラ・サールのほかに、西大和学園と洛南を受験している。
灘の合格発表は、洛南の試験中に行われた。妻は子供の試験に付き添い、インターネットでの発表は開示しないのでA氏が現地まで見に行った。
「朝一番に見に行ったところ、息子の受験番号があり、すぐ妻に電話しました。息子は試験中でしたが、電話でお互い涙したことをよく覚えています」
子供はその後灘中学に入学し、中学生として日々を送っている。
「現在小学5年生の娘も塾に行き始めて、最初から妻が横について徹底指導し、少しずつ偏差値上がってきていますね」(A氏)
中学受験は親のサポートと「本人のスイッチ」が大事
灘中学合格までのストーリーをお伝えした。A氏は「頑張ったのは息子と、妻」だと言う。
小学生にとってはかなりの長丁場である、2年にもわたる中学受験を、どのようにスタートしたか、A氏に改めて振り返ってもらった。
息子が小学校5年生のとき、灘中学の文化祭に連れていきました。受験勉強を始める頃は、子供も遊びたい盛りでしたから、それをやめて勉強なんて、という感じでした。
行く前は、試験の過去問題集でも買って帰るか?と話しましたが、息子はいらないと言っていました。
ですが文化祭で学校の雰囲気や通っている生徒にどんな人がいるかなどを知ったことで、息子の中でスイッチが入ったのでしょうね。
帰る頃には「過去問を買う」と言い出し、帰りの道の電車の中で過去問を解き始め、「あの学校に行きたい」と本人の口から聞くことができました。
長時間にわたる勉強が苦しくても、テストの結果が悪くても、友だちもいた塾を替えることになっても、歯を食いしばって頑張れたのは、本人の「灘に行きたい」という思いがあったからだと思います。
学校を見に行くと、子供の中の「あの学校に行きたい」という思いが固まっていきます。
親のサポートも大事ですが、長く苦しい受験で合格という成果を勝ち取るためには、本人が「自分が望むこと」であるとしっかり認識すること、親はそれを手助けするのが、最も重要なことであると、我が子の受験を通じて強く思うことです。
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