有馬温泉に100万人の観光客を呼び戻した老舗宿の15代目
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2023.09.06
- 日本書紀にも登場する兵庫県の有馬温泉。ピーク時の1991年は年間192万人もの観光客が訪れていましたが、阪神淡路大震災や景気低迷の影響で徐々に観光客は減少し1995年には102万人まで落ち込みました。しかも、そのほとんどは工事関係者。実際の観光客数は約30万人ほどだったのです。
そのような中、まちづくり全体を考えた集客の仕掛けづくりに取り組み、有馬温泉の住民が温泉観光をまちづくりと合わせて考える意識改革に大きく貢献した人物がいます。「社長の履歴書」で2人目に紹介するのは、その立役者であり1191年創業の老舗旅館「御所坊」の15代目主人・金井啓修さんです。
活気を取り戻した有馬温泉の年間観光客は、2002年に131万人まで回復しました。100万人の観光客を呼び戻した金井さんの手腕を3回に分けてお届けします。
「時代遅れ」に感じていた有馬温泉
金井啓修(かない・ひろのぶ)
1955年神戸市・有馬温泉生まれ。調理師専門学校を卒業後、北海道定山渓温泉の旅館に入社。77年有馬に戻り観光協会青年部を結成。1981年、「御所坊」社長に就任。2003年有馬玩具博物館開館。2010年観光庁の「観光カリスマ」に認定
私が小学校に入学する頃、日本は高度成長期に突入していました。有馬温泉の旅館もどんどん大型化し、テレビCMをガンガンに流していた時代でした。中高生の頃は、御所坊という旅館に対して「非常に時代遅れの宿」と思っていて、有馬温泉という地域にも特別な魅力を感じていませんでした。
御所坊に家訓のようなものはなく、14代目である父からも「家業を継ぎなさい」「経営者になるための勉強をしなさい」などと言われたことはありませんでした。
ですから、高校卒業後はパリに行って画家になりたいと考えていました。そのためにまずはフランスのレストランで働こうと料理学校に通いました。卒業後はパリのホテルに採用されました。制服の採寸を終え、仲間に送別会を開いてもらい、渡仏の日を心待ちにしていた矢先、就職先のホテルから「フランスの大統領が変わったため、労働ビザが発行できなくなりました」と連絡がありました。私の就職は取り消されてしまったのです。
今まで抱いていた夢がガラガラと崩れました。誰も私のことを知らない場所に行きたいと、北海道の定山渓温泉のホテルで働くことを決めました。
北海道では、悶々とした思いを抱えながら毎日を過ごしていましたが、そこで、私の地元である兵庫が一躍脚光を浴びる出来事が起こりました。1977年10月放送のNHK連続テレビ小説『風見鶏』をきっかけに、舞台となった神戸市の「異人館」などが憧れのエキゾチックな街として日本を代表する観光地になっていったのです。
私は浦島太郎にでもなった気分でした。
辿り着いた地での、ある出会い
そんなある日、私が旅行代理店巡りのため定山渓から東北地方を回っていた時のこと、青森県の十和田湖のほとりにおしゃれなピザハウスを見つけました。店の前の看板には「神戸まで〇キロ」と書かれた矢印の看板が立っていました。
東京でも大阪でもなく「神戸」と書いてあったことに興味が湧き、ぜひここで食事がしたいと思い店に入りました。店内には多くのアンティーク時計が飾ってあり、神戸でよく通ったピザ屋の雰囲気に似ていました。
店主にその話をすると、神戸のその店で修行をしていたことがわかったのです。
偶然の出会いを嬉しく思いつつ、私は「こんなにおしゃれなお店なら、もっと都会で営業したほうがお客さんは来るのではないですか?」と質問しました。
店主は「平日はモンペを履いたおばあちゃんが孫のためにピザを買いに来てくれたらいいのです。週末になると都会(三沢市)から若い人たちが多く訪れてくれます」と答えました。店主は言いました「都会から田舎に人を呼ぶ店にしたいので、ここで営業をしています」と。
発想を転換すれば「迎え入れたいお客さま」が来る
私はそれまで有馬温泉に対して、「おじいちゃんやおばあちゃんの温泉街」というイメージを抱いていました。
しかし発想を変えて、このピザ店のように「自分が迎え入れたいお客様」が来てくれるような仕掛けをすれば、有馬温泉にも年配客だけではない客層を呼ぶことができるのではないかと。
「故郷に戻ったら自分にはどんなことができるのか」「あの土地を使えば、こんなイベントができるのではないか」そこから有馬に戻るまでの時間は、故郷の未来の街づくりについて考える時間となったのです。
それから半年後、私は有馬温泉に戻りました。
ちょうど同じ頃、旅館や土産物屋の同世代の息子たちも故郷に帰ってきた時期でした。
その頃の有馬温泉は大型旅館がいくつか乱立していました。夕方になると団体客が乗ったバスがホテルに到着し、翌朝そのバスがホテルからそのまま帰っていく。日本全国の温泉地と同様、有馬温泉の商店街はどんどん寂れていき、街中を歩く人はほぼいない状態でした。
仲間とともに「有馬温泉を活性化させる」
私を含め地元の若者たちは、そんな有馬温泉を活性化させようと、毎週商店街の煎餅屋の二階に集まって議論を重ねました。これが街づくりの原点です。そのうちに神戸市の職員も一緒に参加してくれるようになりました。
有馬温泉の芸妓(げいこ)遊びに興味を持ったことから、最初に立ち上げたイベントは芸妓とのお座敷遊びを学ぶ「有馬温泉大学」の開催です。イベントは大成功を収め、テレビを含め多くのメディアが取材に来てくれました。
夏の閑散期には、銀座の歩行者天国を真似た夏祭りなどを企画しました。
私は毎回様々な企画を提案し、仲間からは「ヒットメーカー」と呼ばれました。そのアイディアの根底には「神戸外国倶楽部」でのアルバイト経験があります。外国人の社交の場として設立された同倶楽部で、彼らの自由で豊かな発想を持った遊び方を目の当たりにしてきたことが、今でも数々のアイディアのヒントになっています。
こうして有馬温泉の街づくりに奔走していく中、神戸市からの提案で有馬温泉のマスタープランを策定しようということになり、私たち若手がワーキンググループをつくり、議論を重ねていきました。
「まちづくりは30年先を考えて計画するように」と教えられました。自分が親の代になったとき、子どもたちが自分の年齢になったときにどんな街になっているのが理想かを考えると非常にわかりやすいでしょう。
大分の由布院や群馬の草津など、地域全体で街づくりに力を入れて注目されていた温泉地を視察したことなどによって、30年後の理想の街の具体像を思い描くことができました。
「そぞろ歩きのできる街」を目指すが…
1987年に策定された有馬温泉まちづくりのマスタープランでは「そぞろ歩き」のできる街をつくろうとの方針が掲げられました。
こうしたプランに対して、街全体の総論は賛成でした。しかし、各論ではそれぞれの宿の考えもあります。計画はなかなかうまく進みませんでした。マスタープランで掲げたそぞろ歩きができる街づくりは、数年経っても実現できませんでした。
そこに、起きた悲劇。
それは1995年1月阪神淡路大震災でした……。
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